当時、地方自治体は公営ギャンブルを起こし、娯楽と金儲けの一石二鳥を狙ったところが多かった
ここ松江市も
「利潤のあがる公営企業」として競輪場誘致決め
市が宍道湖を埋立てた土地(末次の埋立地)の一部を提供し、日本競輪株式会社(大阪)が施設を担当
1周300mのコースと本部、選手控え室、車券売り場などを建設した
経営主体の市は競輪事務局を設置し、競技は県自転車振興会に委任
その収益で市民サービスの向上を図る目的で開場した
1950(昭25)年5月30日:松江競輪場が開催される(土地:甲子園土地企業、主催:松江市)
第1日目:約2,000人の入場者、118,500円の大穴が出るなどし
第4日目:入場者は4,000人に上り車券の売上高も125万8,300円と
まずまずのスタートを切った
(コースのカーブは47度の急傾斜になっており、他に例がなく大穴の出やすい競技場だった)
市では競輪への関心を高めようと、広報紙に「車券の知識」として記事を掲載したり
観客の動員に努めたが、スタート当初の好調さも天候やギャンブルへの市民の消極的な性格からか
だんだんと衰微し、岡山・広島方面への観客誘致も効果をあげず
その後、年10回ほど開催されたが赤字が膨らみ廃止をも検討され
1953(昭28)7月:八百長騒ぎが起き、この事件を契機として競輪廃止の声が高まり
市議会も特別処理委員会を組織して対策を協議し議会で廃止の決定に至った
同8月:開始からわずか3年、松江競輪場はその短い歴史に幕を閉じた
1956(昭31)年11月:競輪場は昭和31年11月に陸上自衛隊第3管区に市が要請し自衛隊作業として撤去され
廃止となった跡に末次公園が造成され、その公園の一部に今の市役所が建てられた
島根県松江市末次町
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